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 4500年前の高台住宅地

2014年06月24日

いつもながらご無沙汰です。m(_ _)m

本町に限らず、各被災自治体の高台移転等で造成事業が行われているが、
結構な割合で埋蔵文化財調査の必要がある。
以下、文化庁HPからの埋蔵文化財調査に関する引用です。

埋蔵文化財と文化財保護法
文化財保護法では,周知の埋蔵文化財包蔵地において
土木工事などの開発事業を行う場合には,
都道府県・政令指定都市等の教育委員会に
事前の届出等(文化財保護法93・94条)を,
また新たに遺跡を発見した場合にも届出等を行うよう求めています(同法96・97条)。
出土した遺物(出土品)は所有者が明らかな場合を除き,
発見者が所管の警察署長へ提出することになっています(同法100条)。
土木工事等の開発事業の届出等があった場合,
都道府県・政令指定都市等の教育委員会はその取り扱い方法を決めます。
そして協議の結果,やむをえず遺跡を現状のまま保存できない場合には
事前に発掘調査を行って遺跡の記録を残し(記録保存),
その経費については開発事業者に協力を求めています(事業者負担)。
ただし,個人が営利目的ではなく行う住宅建設等,
事業者に調査経費の負担を求めることが適当でないと考えられる場合には,
国庫補助等,公費により実施される制度があります。

これにより、一日も早い着手と完了が必要とされる復興事業であったとしても、
文化財保護法により埋蔵文化財調査を実施しなければならないこととなっている。
文化財保護等の意義と重要性は理解している(壊せばなくなるから)一方、
被災地としては
「古代の人々の宅地も大切だが、復興住宅地整備はもっと大切」
「現状を鑑みればそれどころではないよ~」
との思いもあるのは当然。
これを踏まえ、国・県としても造成に与える影響を最小限にとどめる方針を出しており、
調査期間の短縮化や効率化・造成事業との同時進行等に努めている。
手順としては、調査の必要性があると判断された場合には、
試掘による予備調査(1~2か月)→必要に応じて本調査(規模により期間不定)となる。
試掘で済めば、後は本格的に造成に入れるが、
本調査となるとこれを如何にスムーズに効率よく実施できるかが課題となる。
本町において本調査が行われた(現在も実施中)地区に内山地区がある。
当該地の造成は、以前より縄文期の内山遺跡として知られている範囲内であり、
調査は当初より必然であった。
造成予定地の伐採終了後2月に試掘が行われ、本調査は7月末までの4カ月弱、
これを経てようやく本格造成に入ることとなるが、これまでの調査の成果として、
先週末当地において発掘調査説明会が行われた。

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曇天の中、町内外から100名近い方々が見学に来られた。

住居の杭跡と食糧保存のためと思われる貯蔵穴、土器を使った炉跡。
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土器・石器類の遺物には黒曜石製の石器やアスファルトが付着したものなど、
女川では採れない材質のものもあり、広域の交流があったことを窺わせる。
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また、同じ地域内からは江戸時代の墓跡が10基ほど見つかった。
中から寛永通宝やキセル、毛抜きなどの副葬品も見つかり、
木製の棺や桶に入れて埋葬されたと思われるとのこと。
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町内で発見されている最古の遺跡は出島貝塚で推定1億2000万年前だが、
縄文期の集落遺跡の本格調査は内山が初だったとのこと。
内山同様に、本町の縄文期の遺跡は女川港を取り囲むように存在している。
当時は日本列島の海面が現在より5mほど高かったそうで、
そもそも現在の女川の中心部は明治以降の埋立地が多いから、
古代の人々にとっては各遺跡の場所は海際の高台だった可能性が高い。
魚介類の採捕だけでなく山での狩猟採捕や大型動物からの防御など、
色々な面で適していたのだろう。
その同じ土地が、今度は復興という異なる理由で、
4500年の時を経て人の住まいする場所となる。
実際はその間何度かの人の居住はあっただろう。
それでも、4500年前の古人はここから日々何を見ていたか、と思いを巡らせた。
海岸線も違えば建築物なんてものはあるはずもない。
しかし、三陸の緑繁る稜線、そしてそれに調和する女川湾の姿は
今と変わらぬ、或いはひょっとしたら、より美しいものであったかもしれない。

そんな感慨を抱きつつ、
一方で最速での調査完了と早期の本造成着手いう超リアルな願望wも抱きつつ
我が故郷の古代からの歩みに触れたところであった。

投稿者 sudayoshi : 2014年06月24日 00:38