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 伝えていく・語り継いでいくということ

2019年08月19日

先週、終戦記念日の8月15日。
正午には役場庁舎から女川湾に向けて黙祷を捧げた。
先の大戦や我が国の歩みを振り返る特番や特集の形で
今年も各メディアにて様々に取り上げられたが、
その中でよく見られたのが当時を直接経験された世代の減少。
このこと自体は以前から言われていることであるが、
戦後の74年という歳月は一人の人生の長さといってもそう大きく外れないし、
特に、戦地に赴かれた方々は概ね90歳を超えておられ、
あと数年経つと、恐らくほとんどの方々は世を去られるのが現実だろう。
そこからもう十年も経てば、幼少期に戦争を知る世代のほとんどの方が、
これもまた世を去られるということになる。
だからこそ語り継いでいくことの大切さを益々大事にすべきなのだろうが、
我々のような年代のみならず、下の年代がリアリティをもって
戦争とは何なのか
ということを感じ、考える、ということは難しくなっていくのかもしれない。
ましてや、恐らく現代における戦争や戦闘行為というものは、
人と人が通常兵器のみによって相対峙する、というシンプルな構図だけでなく、
大量破壊兵器や化学兵器、無人機同士の戦い、サイバー戦など、
可視化どころか想像もできない形での戦闘もあり得る。
戦争がもたらす惨禍や悲劇はどんな戦争であっても共通だろうし、
その悲惨さは言うまでもない。
世界の様々な場所で現実に日々産み出され続ける悲劇に、
私たちは触れ続けている。
一方で、語り継がれたものに対しその当事者の立場に
自らの身を置き換えてみる、ということについては、
なかなかしにくいような気がする。

先日8月9日、女川湾戦没者慰霊祭が執り行われた。
終戦間際の昭和20年8月9日、長崎に原爆が投下された同日と翌10日、
女川は連合国軍による空襲を受けている。
入り江で深さのある女川湾は古くから天然の良港として知られていたが、
これは軍事用の艦船についても当然同じであり、
大戦前には官民を上げての軍港誘致の請願も行われている。
旧日本海軍の要港の一つとして女川防備隊が配置され、
大戦末期のこの頃、海防艦「天草」をはじめとする艦艇が停泊していた。
8月9日、連合国軍は空襲を行う。
このときの激戦については、当時の様子を目撃していた方々より
お話を伺う機会がこれまでにも幾度とあった。
激戦とは言っても、高射砲もあてにならないような状況下で、
対空砲火がないので、地上スレスレに飛んで打ちまくるという、
ゆっくり逃げ回る羊を狩るかのような、一方的なものだったらしい。
超低空で侵入してきたパイロットの
「ニヤッ」
と笑う顔をはっきりと覚えているという方もいた。
一方、為す術が無いなかでも防備隊は奮戦し、敵側に対し損害を与えた。
カナダ海軍の英雄ロバート・ハンプトン・グレイ大尉は
この戦闘で戦死し(カナダ海軍最後の戦死者)、女川の海に眠っている。
※グレイ大尉の追悼式も毎年カナダ大使館から出席のもと行われています
斯様な激戦だったわけだが、この時の生き残りの方が今も数名ご存命で、
今年は仙台市在住の川村さんという方が慰霊祭にお越しになられた。
お歳は94歳!大変しっかりとされた方でありました。
で、この川村さんだが、私に会うのを楽しみにしておられた、ということで、
“なんでなんだろうなあ?“
と不思議に思っていたのだが、お会いするなり、
「いや~、あなたのおじいさんにお世話になったんです!」
ん?うちのじいさんは軍曹だったが、南方戦線じゃなかったっけ?
と思っていたのだが、お話をお聞きするうちに祖父ではなく、
大戦当時町長を務めていた曾祖父のこととわかった。
で、お世話になった、とのお話なのだがどういうことだろう?
と思ったのだが、このあとの川村さんの言葉で、
その当時のことが急に現実感をもって私に降りかかってきた。

「戦後の残務整理のために大変力を貸してもらったんです」

残務整理?ですよねー、そうですよねー、と。
戦争といっても、戦闘行為が終われば戦争が終わるわけではない。
先の大戦だって、本当の意味での戦争の終了は
降伏文書調印の9月2日、或いは1951年の講話時である。
この「残務整理」という言葉が、日常の超リアルな感覚で
その当時のことを想起させるのである。

川村さんは当時防備隊にて通信兵の任に就かれていたが、
8月9日の朝、標的艦「大浜」が敵襲を受け火災を起こしてしまい、
この消火にあたって地元消防団に協力してもらいたいので
町役場に要請してきてくれ、という指示を隊長から受け、
防空壕内にある通信室から自転車で町役場に向かっていたそう。
その間に本格的な空襲となり、防空壕から戦況を見ていたという。
前記の通り、苛烈な戦況だったそうだ。
そして終戦後、川村さんは女川には3ヶ月残り、
様々な事務処理や事後処理にあたられたそうだ。
それにあたっては、町の施設の一部を町から提供してもらうなと、
各種の便宜を町側から提供してもらったとのこと。
多くの兵士の復員手続き作業に始まり、
武装解除点検・残存資機材・食料品の報告などのGHQ対応を行い、
全ての残務整理を終えて11月に女川を離れるときは
女川駅に20人以上がお見送りに来てくれたそうだ。
こんな話も伺った。
そのGHQが査察に来る、という一報が入ったとき、
「服飾品などは接収されるぞ」
ということで、皆が腕時計をはずし背伸びで届かない棚の上に置いたそうな。
そうして米兵が到着したところ、
「お、時計があるぞ」
とすぐに見つけられた。
何のことはない、こっちが手を伸ばして届くか届かない棚の高さが、
米兵にとっては背伸びもしない目線の高さだった、ということ。
ちなみに、川村さんの腕時計は、外さずに腕につけたままだったので
取られずに済んだそうです。
こんな等身大の日常にも置き換えられそうなストーリーが、
戦争という非日常と当たり前に思っている日常とが
実はいつでも繋がるかもしれない、ということを、
その怖さを皮膚感覚で教えてくれるのである。

慰霊祭では、私や川村さんなど皆で献花し、祈りを捧げたが、
私からはあいさつの中で

不戦を誓っていくことと脅威に対して立ち向かうこと
その手段を捨てることは同義でなく、
もし同義とすればこの女川湾に眠る方々は
何のために命を散らしていったのか、ということになる、
我が国周辺をはじめ世界中で様々なリスクが顕在化し、
我が国の場合で言えば今の瞬間も自衛隊・自衛官の皆さんが
脅威に備え最前線で任に就かれているのであり、
その実力組織を戦争を起こす力として否定するのでなく
「戦争を起こさないための力」として捉え行使していくことが大切

というようなお話をさせていただいたが、
川村さんが深く頷かれていたのが印象的であった。
戦争を起こさない、招かない、そのための現実的な手段と対応、
一方で語り継ぎ、伝えていくことで、時を経ても
今を生きる一人一人が自分事として捉えていくこと。
そのどちらも大切にしていかなければいけない。

この今回のエントリーを書いていたら次のようなサイトを見つけた。
74年前の終戦前後の1か月半について、
74年前の今日何があったか起きたかを呟くもの。
8月18日には女川絡みのものもあって、転載すると

1945年8月18日18:30 特務艦「宗谷」が女川港に入港。
野菜を求めて上陸する
「海軍のせいで戦争に敗けて申し訳ありません。
野菜をどうか分けてくれないでしょうか」
「戦争に敗けたのはあなた方が悪いのではないのだから、
家の前庭の太ネギを全部取って行きなさい」

出典は不明だが、このようなことがあったんだな、と
これもまた敗戦後のリアルを感じさせる。
色々と興味深いのでご関心のあるかたは覗いてみてください。
https://twitter.com/Fuyo1945

最後に。
「もうこのように動ける人間もいなくなったので、
毎年伺って生ある限り伝えていきたい」
川村さんは仰られていた。
お歳とは思えないほどのご壮健ぶりでしたので、
益々のご健勝を願うところです!


もう一つ最後に。
今回の記事エントリーを打ち終えた後に、
その川村さんからお手紙を頂戴した。
先日の御礼のお手紙(こちらが御礼を申し上げるところで恐縮です…)だが、
その結びに
老春、老美、老楽、老学、老遊
と記されていた。
広辞苑に”老”の字が付く熟語が約120あるが、
辞典にない熟語を創られてモットーとされているとのこと。
改めて益々のご健勝を!

投稿者 sudayoshi : 2019年08月19日 21:58